世界のねじを巻け!

本の感想やいいなと思った話を載せていきます

【感想・あらすじ】『鼻』 芥川龍之介 作

 今日は『鼻』のあらすじと感想を書いて行きたいも思います。

 

あらすじ

 ・禅智内供の鼻は大きいと事がコンプレックスだった。

 

・鼻を熱湯で茹でて、踏むと鼻は、短くなった。

 

・鼻が短くなったことをかえって周りの人は笑った。

 

・その後、内供の鼻は元の大きさに戻るが、内供は清々しい気持ちになった。

 

 

感想

①夏目漱石先生に絶賛された作品

 この作品は夏目漱石先生に絶賛されました。その絶賛の仕方がもの凄いです。以下その時のその引用です。

 

背景 新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んで見ました。

 あなたのものは大変面白いと思ひます落ち着きがあって巫山戯(ふざけ)ていなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出ている。所に上品な趣があります。

 それから材料が非常に新しいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整つています。

 敬服しました。

 ああいうものわ是から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます。

 しかし、「鼻」だけでは恐らく多数の人の眼には触れないでしょう。そんなことは気にしないで、ずんずん御進みなさい。群衆は眼中にしない方が身の薬です。

 これ以上に無い大絶賛であると言えると思います。

 発表されたのは、大正5年2月で、『羅生門』の発表からだいたい3か月後のことになります。まだ東京大学に在学中ということになります。夏目漱石先生の方は亡くなるのが大正5年12月9日のことですから、かなり晩年のことでした。

 

②原作との相違点

 原作は『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」になります。二つの話は同じはのようです。

 2ページ程の話で、内供の鼻が長いことと、その鼻が一度長くなり戻るという点も共通しています。

 しかし、内供の心理は描かれていません。

 原作では、鼻を粥に落とされた内供が弟子に対して「高貴な方の鼻だったらただではすまないぞ!」と怒ったのに対して、弟子が「あんな鼻が他にあるか」と言い返したことの面白さがメインになっているようです。

 

③他人ちょっとした幸福が羨ましく、ちょっとした不幸が面白いのは今も昔も変わらないのかも(^_^;)

 自分の高校時代の教科書では『羅生門』が載っていました。『鼻』が夏目漱石先生に絶賛されたことを知っていたので、なんで『鼻』ではなく『羅生門』が教科書に載っていたのかが疑問になりました。

 『鼻』を読んでみて、いじめの話だから載らなったのかなというような感想も持ちました。

 ところが、別の教科書では『鼻』が載っていたといったようで自分の考えは誤解だったことが後に分かったりしました。

 ともかく、この話は一人の人間のコンプレックスと周りの人間の嘲笑がテーマであるといえます。

 現代でも整形手術やダイエットなどでコンプレックスを解消する人はいますね。

 ダイエットの場合は成功すれば笑われると言うより、頑張りを賞賛されそうでですね。私も頑張らねば(^_^;)

 また、鼻が長いことも恥ずかしいことなのだけども、それを気にしているということも恥ずかしいという心理も現代でも変わらないことなのかなと思います。

 

④ユーモアの要素

 教科書にも出てくる文豪の作品ということで構えて考えがちですが、この作品は基本的には内供の思考の単純さを面白可笑しく書いたものなのではないかと思います。

 鼻の長さが元に戻った時の気持ちの清々しさを表した情景描写を引用します。

”寺内の銀杏や橡が、一晩の中に葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。”

  それまでは、鼻から膿が出てくるような少しグロテスクな描写が目立っていたのに、かなり大げさに清々しさを表している描写をしているのが分かると思います。かなりそれまでの描写とタッチの違いがあると思います。

 

 そして、最後の一文は次の通りです。

 

”こうなれば、もう誰も 哂(わら) うものはないにちがいない。

内供は心の中でこう自分に 囁(ささや) いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

 「長い鼻を秋風にぶらつかせながら」という表現は間抜けさがにじみ出ていると思います。

 偉大なる小説家が絶賛した偉大なる小説家の作品ということで難しく考えてしまっていた為に、こういったユーモアの要素を見落としていたなと今回改めて読んでみて思いました。

 

 

 

おわりに

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 

今日はこの辺で(^-^)/