世界のねじを巻け!

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【感想・あらすじ】『ねじまき鳥クロニクル』

今日は『ねじまき鳥クロニクル』のあらすじと感想を書いて行きたいも思います。

 

 


主な登場人物


僕(岡田亨、オカダトオル)

物語の主人公。失業中であり、家事全般をそつなくこなす。

 

クミコ(岡田久美子)

「僕」の妻。雑誌の編集者。物語途中で失踪する。

 

電話をかけてくる女

突如、「僕」に電話をかけてきてテレフォンセックスまがいのことをしようとする。ストリー後半「僕」は電話をかけてくる女の正体はクミコなのではないかと考えるようになる。

 

綿谷ノボル(昇)
クミコの兄。経済学者、国会議員。全編にわたり「僕」が対峙すべき悪として描かれる。

 

加納マルタ
ある種の予知能力を持つ女性。

 

加納クレタ

加納マルタの妹。加納マルタの霊媒師としての仕事を手伝う。

 

間宮中尉

戦時中満州でひどい目にあうも、生きながらえる。日本に戻って教員をしていた。

 

笠原メイ

近所に住む小柄な女の子。高校生の年代にあたるが不登校中。

 

 

 

あらすじ

 

・「僕」の妻であるクミコが失踪する。

 

・クミコの失踪の原因は綿谷ノボルにあると考えるようになる。

 

・「僕」は井戸(一種の精神世界への入り口と解釈しています。)を通じて綿谷ノボルと対峙し、バットで殴打する。

 

・現実世界の綿谷ノボルが脳溢血で倒れ、クミコは救命機器を外しとどめをさす。

 



登場する音楽


『泥棒かささぎ』G・ロッシーニ

物語冒頭で「僕」は序曲を口笛で吹く。序曲は約9分であり、「スパゲッティーをゆでるにはまずうってつの曲」。

 

『魔笛』モーツァルト

どこにいるか分からない妻を救い出すという「僕」に対してナツメグが『魔笛』のような話だと言う。本作はオペラの影響が強いと言えます。

 



感想


①間宮中尉の長い長い話

 間宮中尉の話が長ったと言うレビューを良く目にしました。自分もそう思ったし、村上春樹好きの友人ともそういう話になりました。

 間宮中尉の話は昭和12年の満州を舞台としたもので、第一巻の最後の100ページ近くを占めています。「僕」のいる物語とは時代も場所も違って読んでいる間、伏線に過ぎないということがあからさまなので中々、本筋のストーリーに戻って行かない点にジレンマがありました。(「僕」は間宮中尉の役目を受け継ぐ存在であること分かり、伏線は第三巻でしっかりと回収されています。)

②説得力の無いリアリティーと説得力のあるファンタジー

 間宮中尉の話が長く感じた理由は、伏線に過ぎないということがあからさまだったことに加えてもう一つあったように思います。現実の歴史上の戦争を舞台としているためか表現が窮屈なものになっているような気がします。

 やはり、作者以外の誰かが体験したであろう現実を体験をしていない作者が描くということは、リアリティーのあるシーン・設定であってもせっとく説得力という点では作者の実体験を描いているものには劣ってしまう思います。

 それに対し、リアリティーのないファンタジー的なシーンや設定は作者は勿論、作者以外の人々も体験したことのない景色なので、リアリティーはなくとも説得力という点では損なわれることはないと思います。

 間宮中尉の話が長く感じたのは、リアリティーや説得力がなかったからだとは言いません。むしろ、実際の戦争が舞台のため、作者がリアリティーや説得力を求め肩に力が入っていたためだと思います。(満州を舞台としたシーンには多数の参考文献があげられおり、それに忠実になろうとしたことがうかがえます。)

 それに比べると笠原メイの会話や手紙は肩に力が入っておらず、ユーモアに溢れ、文章に躍動感を感じます。例えば、笠原メイはストーリー途中からカツラ工場で働くことになるのですが、その仕事が単なる流れ作業ではない点を「チャップリンの映画に出てくる工場」と比較して話ています。チャップリンを引き合いにだす女子高生がどこにいるのかと思ったりもしますが、こういう肩に力の入っていないユーモアのある表現が自分は好きなんだなあと改めて思いました。

 

③本作が総力戦であることには間違いない

 本作はトータルで4年4ケ月ほどの長い作成期間をかけており、ページ数も1400ページ程ある大作になっています。

 そして、「猫」「井戸」「やれやれ」「射精した」などの村上春樹的な表現やモチーフが多数登場しています。また、村上春樹な手法も用いられています。

 

失踪する妻

 「僕」の妻が失踪するのは第二巻の最初の方です。第一巻で主人公にとってのクミコの存在の重要性やキャラクターを読書者と共有したタイミングだと言えます。

 村上春樹作品では主人公の妻や友人が失踪します。物語の危機感を高め、失踪した登場人物の居場所や失踪した理由の考えさせることで読者を物語に引き付ける手法だと言えます。

 

笠原メイからの手紙、週刊誌の記述

 村上春樹作品では物語の緊張感がある程度高まったところで、手紙や回想など記述が途中に入って、新しい伏線を張ったりします。

 本作でも笠原メイから手紙が来たり、週刊誌の記述が途中に入ってきます。

 

④四重人格

 加納マルタと加納クレタは一応、別の登場人物ですが、物語中一度も同時に登場したことがなく、同一人物の別の人格ではないかと示唆しています。

 また、クミコと電話をかけてくる女は同一人物ではないかと物語の主人公である「僕」は考えています。クミコと電話をかけてくる女は加納クレタ、マルタと同時に登場しません。

 さらに、クミコの服や靴が加納クレタにぴったりあったり、綿谷ノボルにトラウマを植え付けられているという共通点もあります。


⑤青いティッシュペーパー、花柄のトイレットペーパー

 ストーリー序盤で「僕」は青いティッシュペーパーと花柄のトイレットペーパーを買うのですが、それを妻のクミコにめっちゃ怒られます。そんなに怒らなくてもって思うくらいめっちゃ怒られます。(^_^;)

 クミコは青いティッシュペーパーと花柄のトイレットペーパーが嫌いだったのです。

 特にストーリー後半で意味を強くもってくるシーンではないのですが、その怒らる様

が尋常じゃなかったので印象に残りました。これは人にコミットメント(関わっていくこと)の対価というか、人と関わっていくことに伴う現象ともいえると思います。

 

⑥デタッチメントからコミットメントへ・台頭する新興宗教・戦争

 デタッチメント(孤立)からコミットメント(かかわり)への意識の変化があったと『ねじまき鳥クロニクル』執筆当時のインタビューで作者は語っています。

 また、作者はオウムの事件もデタッチメントの反動としての極端なコミットメントであると位置づけています。オウムの一連の事件は1988年に始まり、1995年に地下鉄サリン事件が起きます。そして、本作は1991~95年に執筆されています。

 本作の悪の根源として描かれている綿谷ノボルは集団的無意識の中に入り込んで民衆をコントロールしたり、クミコやクミコの姉にトラウマを植え付け洗脳のようなことが出来る存在として描かれています。

 日本人の多くは無宗教であり、信じるものの軸ないと言った問題意識は夏目漱石の『こころ』や太宰治の『人間失格』でも取り扱われている問題意識です。

 こうした日本人の心の隙間に入り込んで私欲を肥やす存在が現れることへの警鐘だったのかも知れません。

 新興宗教だけでなく戦争といった事態も人々の集団的無意識がコントロールされたことに起因した悲劇であると言った主張も含んでいるのかもしれません。だからこそ100ページ程も戦争のシーンを間宮中尉に語らせ、かつ、単なる昔ばなしとしてではなく現代に生きる主人公が集団的無意識をコントロールできるものに立ち向かうという役目を継承するものとして描き、現代でも共通する問題であることを強調したのだと思います。

 

⑦『ねじまき鳥と火曜日の女たち』を膨らませ『国境の南、太陽の西』を切り離す

 『ねじまき鳥クロニクル』は『ねじまき鳥と火曜日の女たち』という短編小説をふくらませて創作されたものです。『ねじまき鳥と火曜日の女たち』は『パン屋再襲撃』という短編小説集に収録されており、笠原メイの吸うたばこの銘柄やクミコの職業などに細かい変化はありますが、『ねじまき鳥クロニクル』冒頭の数十ページとほぼ同様の内容です。

 『ねじまき鳥クロニクル』は構想の段階で長くなりすぎていたのその一部を切り離し『国境の南、太陽の西』が執筆されています。

 また、加納クレタは本作の登場人物の一人であるが、作者は『加納クレタ』という題名の短編小説を書いています。

 笠原メイは本作の登場人物の一人であるが、村上春樹作品の短編の「双子と沈んだ大陸」で同姓同名の登場人物がいます。

 色々な作品の関係性が面白いです。

 



おわりに
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

今日はこの辺で(^-^)/